■青かびみかん■



妙な和室のある家に引越しでどれ位経った頃だろうか---
家族と同居といっても皆仕事やら学校やらで生活時間もばらばらで、 顔を合わす事も滅多にないという奇妙な生活をその家では過ごす事になった。

一件家でなだらかな坂道に建つ縦長の家。
よくある一階部分が駐車場で急な階段を登った処が玄関になっている家だった。
もよりの駅からは歩いていける、店屋も結構あって
立地条件は理想的。
でもこの家で過ごした時間程、殺伐としたものはなかったように思える。

そんな家にぽつんと置かれた仏壇。
生まれる以前からあった先祖代々の仏壇。
この家に団欒とか生活感というものがなくなってから
仕方なく置かれている・・という感じで誰も水や灯りなどの 世話もしなくなっていた。

時折、思い出したように置かれた供えのつもりなのかみかんがたった一個だけ 皿も何もなくおかれている位。
みんな忙しかった。
自分の事で精一杯といった感じ。
それでも物言わぬ仏壇はそのままの待遇で月日だけが経っていった。

忙しい朝の出勤時、少し開けられた仏壇のある和室から
丁度いつか置かれたみかんだけが見えた。
相変わらずぽつんとそれだけが置かれていた。
何気にそのオレンジ色に視線が一時だけ移るようになっていた。
でも私も仕事の人間関係や体調不良で全てがいっぱいいっぱいで何か他を顧みるという事が出来なかった。
人間不信、慢性の神経性胃炎、損得勘定優先の現実生活の中で 寝起きするだけのこの家の事などどうでも良かったのだ。

いつものように忙しい出勤時、ふと見たあのみかんには緑がかった青カビがびっしりとついていた。
毒々しい位のそれはみかんを綺麗に包んで相変わらずぽつんと置かれていた。
今、考えたら「カビ生えてら・・」それしか感じなかったのは相当精神が疲れていたんだろう。
でも段々とその青いカビがそこを通る度に私の視界に入るようになっていった。
相変わらず無反応にそれを見る私・・・それの繰り返し。
「・・・・・・・・・。」
辛うじて残っていた私の中の何かがそれを見つめるようにさせていた。
それは今になって余計にそうだったと実感出来る。
その部屋には何も無い・・仏壇以外は物置き同然で忙しい住人がそこに入る事すら 殆ど無かった。
でも・・何かが無言の中で切ないものをちらりと覗く私に訴えかけていたように今なら思える。

あれから幾日が経っていたろうか。
私はそっとその部屋に入って青カビにつつまれたみかんを取ると台所で棄てた。
仏壇には全体に白い埃が積もっていて誰かが何かをした気配は全くなく、その扉は 開かれっぱなしだった。
何とも寂しいもんがそこに漂ってて、それから私は埃を少し拭いた。
すると不思議なもんでもうちょっと綺麗にしよう、
水も新しくして・・という気持ちになった。
そこまでになるとげんきんなもので意識がすっかり世話モードになっていた。
もっと中も綺麗にして明日は花も買ってこよう・・
そんな事を考えていた。

元々世話焼きの素質も少しはあったのかもしれない。
甲斐甲斐しいの言葉がぴったりな意識の変化がそこで私に初めて芽生えていた。

世話をし始めて数日後、新しいお供え物の和菓子を買って和室の襖を開けると・・・
そこには仏壇は無かった。忽然と置いてあった場所だけが引越した当諸のまま綺麗だった。
色々あって仏壇はちゃんと世話をする者が引き取っていったという事を後で聞いた。
仮にも先祖代々の仏壇である・・然るべき処置がようやくされたという事なんだろうけど
余りにも突然の事でこちらはびっくりだ。

不思議だったのはその時、開いた部屋の中からふんわりとした風ではない小さな柔らかい空気のようなものが
私を通り越して外に流れたのを感じた。
それは一瞬の出来事でとても繊細で微かなものだったがしっかりと私に伝わった。
---「ありがとう・・・」
そのふんわり空気が私に当たった時にそう伝えた。
控えめで本当に微かな一瞬の事だったけれど確かに私にはそう聞こえた。
控えめな女性の声が直接頭の中に伝わったのだ。

世話をする対象を突然無くして妙な喪失感みたいなのをそれから感じた。
それから「どうしてもっと早くに顧みてあげなかったんだろう・・。」と思う後悔の念と切ない気持ち。
「ゴメンネ・・・・・。」
やりきれなかった。

後日談、丁度私が気になりだした頃、霊感の強い兄弟の一人があの和室から二階の自室へ 黒い妖怪のような塊が這い登ってきて自分のもとに来た夢を見ていたとか・・。
ようやく仏花を買って来たら仏壇が無かったそうである。